私が子供の頃は「子供の仕事は勉強である」と決まっていました。大人は外で仕事をする。
子供は家で勉強する・・・それが当然とされていました。不思議とそれ自体には反感はありませんでした。「働かざる者食うべからず」これも生きていました。勉強をサボったら「おやつ」はない・・・・ペナルティもありました。
実際、「何のために勉強するか?」こんな重要なことは、人に尋ねることではないと思うのです。「はい、これです」と見せられるようなものではないと思うからです。人の年齢にもよりますでしょう。
幼少期の勉強は・・・の為、青年期の勉強は・・・の為、壮年期の勉強は、・・・・の為、と年齢によっても目的は変わるのではありませんか?
少なくとも、小学生・中学生の勉強は「経済的自立・精神的自立」のために不可欠と考えます。お子様たちの多くは諸物価をご存じありません。マンションの家賃がいくらか、光熱費がいくらかかっているか・・・まったく無知です。社会を知らないで「社会に出る」準備ができるでしょうか?今後、職場体験が行われますが願わくば、辛いものであってほしいのです。お茶飲んで、おかし食べて、ちょっと接客のまねして、お茶飲んで、おかし食べて「さようなら」では、全く誤ったメッセージを子供たちに送ってしまいませんか?無責任に申しますと、前から、1日5時間の労働の対価として「最低時給」を現金で渡せばよいと思っています。だから、荷物運びのお手伝い・・・実際荷物を担いで3階まで駆け上がる、荷おろしをするなど、本当に「働かせる」べきだ・・・出来たら肉体労働をさせるべきだと思うんです。1日たった5時間です、これを8時間+残業をするのだ・・・と思ってこそ真剣に進路を考えるし、勉強も始めるのではありますまいか?私の家はおかしな家で「児童労働」させられていました。雨の降る日もお構いなく
暇にしていれば「仕事に駆り出される」のです。昔の雨合羽は蒸れて、襟から袖から雨水が入ってパンツまで濡れて蒸れる。それでも時間までに単純な仕事とは言え終らせないと段取りが狂って他人様に迷惑がかかる。半人前四分の一人前の祖事にしかならないのですが、今思えば、それが嫌で「勉強した」ようにも思うのです。実体験が無いままで「はい、これから社会人」なんて言われても辛いかな?と思うんです。もっといい仕事があるにちがいない・・・と「青い鳥」を求めて転々と転職しても転落するだけ。まず、組織で働くのに向くか、独立して仕事をする方が向くか・・・・「仕事をする=会社に入る・雇用される」と考える時代は終わったとも思うんです。皆がサラリーマンとして雇用される社会ってやっぱりなにか歪な気がします。絶対「不適応」な人はいるはずです・・・私みたいにね。全てが大きく変わる時が来ている気がします。