子供の頃は「自由」って楽なもんと思っていた。最近は「自由とは空中で身を支えるような極めて危ない芸当だ」と思うようになっている。これは、私が「周囲から大反対されながらも2回目の起業をした」からかもしれない。1度目の起業はめでたく成功した。しかし、自分が「未熟である」ことを教えてくれた・・・そこから武者修行に出て「世の中」の本当の姿を知った。だからと言って「世の中は汚い」なんて思わない。多くの方は「困っている」「物わかりの悪い」私に助けの手を伸ばし、何の報酬もないにもかかわらず助けて下さった。無知な中年男をあわれと思われたということもあるだろう・・・そういう点では「中年の頼りないおじさん」とはお得である。不親切と言われるお役所でも、何度説明されても分からない私に「呆れられて」時に付ききりで、「こう記入するんですよ」と教えてくださった。本当にありがたいと思う。「自由」には「責任」が伴う。そして「危険」も伴う。組織の一員であるより、自らトップである方が長い私であるが、常に「危険」にさらされていることは思う。世の中の商店主の「男らしい」こと。朝早くから仕入れに行き、年中働く方を心から尊敬している。
今の日本では「サラリーマン」が大半であるが、世界規模で見ればこれはとても珍しい状態であるようだ。今まで大企業に就職すること、公務員になることが「生活の安定」を意味すると考えられてきた。しかし、これからはどうだろうか?大企業でもつぶれるときはつぶれる・・・合弁・合併・子会社化と言えば聞こえはいいがその後、人員整理は必須である。日本の人口は1億3千700万人で減少を続けている。高齢者と子供の比率が逆転した。いずれ雪崩をうって「激減期に入る」だろう・・・でなければ葬儀産業がこれほど増えるはずがない。とすれば「公務員」は現状ほど必要なのか?失礼だが、かなりの仕事は「コンビニに端末を置く」ことで代替するのではないか?これだけ「大変な仕事」と世上言われるにもかかわらず「教員養成コース」を志望する大学生は減らない。子供は減っているのである。放っておいたら学校規模は縮小する。教員もいらなくなる。私は「学校教育の質」を保持するためには、教員の質の向上が不可避と考えている。20人学級を実施しても学級経営はたぶん楽にはならない。倍の教員数が必要となり逆に「質の低下が進む」と思うからである。現在の学級規模を維持しつつ、先生方を「事務処理」から解放する必要がある。かってケネディ大統領が州知事時代に行った「バタビアシステム」でも導入しないといけないだろう。先生方の行っていた事務仕事を請け負う方を雇用するのである。「中高の部活動の休養日の指針」が文科省から次年度出されるが、強制性は無い。部活の顧問ともなれば先生方に土曜日日曜日も無い。十分な授業研究もできない・・・と、ある知り合いの教員は嘆いていた。授業研究無くして、生徒の学力は向上しないだろうと私は思う。単調な就魚から創造的な子供たちが育つとは思えないからである。私たちの滋賀県民は、多くが2次産業3次産業に従事するサラリーマンである。子供に継がせる家業を持たないということだ。にもかかわらず「子供たちの学力が高くない」とは、将来に誠に困る状態ではないかと危惧してきた。子供たちが「真に自由に生きる」ためになんとしても、学力向上を成し遂げなければならなと思う。これは塾に通えという意味ではない。本質的に「学力向上に県民上げて取り組まないといけない」と言うことである。