最近では「宗教」のことが教科書に少しは広く扱われるようになりました。とともに、フランスのニースのテロやトルコのクーデターは「どうとらえたらいいのか」と理解に苦しむことが起こっています。ときどき私が「聖書」の一節などを引用するので「なんかの宗教に入ってはる?」と誤解もされます。本当は「仏典」や「四書五経」からも引用していますが・・・・。今の中学生や高校生はどうだか知りませんが、私はその年台ころから「生きるってなんだろう?」「自分は生きていていいのかな?」などと考える・・・外見からは想像できない内省的な少年でした。なんとか教に満足できるようにはできてないのか、特定の宗教はありませんが、「これからは海外だ、キリスト教圏の人と付き合う、文化を学ぶには聖書は必要だ」と言う思いから読み始めました。クリスチャンには申し訳ないのですが、旧約聖書の楽しくないこと。現代語訳より文語体の古~い聖書の方が面白かったですね。漢文の読み下し文のようでリズミカルです・・最近見かけないなあ。
タイトルにした聖句が「盲目的信仰」を述べているのではないことは賢明な皆様はお分かりだと思います。きわめて「脳科学的」なんです。「祈る時はもうそのことが実現したかのごとく祈りなさい」・・なんて「脳トレ」じゃないですか。今は「ポジティブ思考」だけでは意欲が生じないことは広く知られるようになりました。そう、中野先生も香山先生もおっしゃっていますが「実現したときの感情を実感すること」が、誠に重要だそうです。「出来るはずだなあああ~」よりも「出来ちゃった!達成できたよ!うれしいよ、ほいほい!!」がいいわけです。ネクラ人間の私は勉めて「そうしよう」としていますが、うん、確かに「こっちの方ができたかできなかったか以上に、精神的に爽快」ですね。「塾と言うと鉢巻締めて勉強する」ような時代ではありません。できるかぎり、科学的に、1人の体験だけに頼らずより学問的裏図けのある方法を取っています。 😆 😆