「まあ、勉強のことは子供に任せよう」・・・すごく綺麗で聞こえがいい言葉です。
でも、ちょっと待ってください。お子様の勉強に介入するのが面倒だ・・・ということはありませんか?仕事が忙しい、家事がある・・・だから「もう中学なんだから」「もう小学5年なんだから」自分でやってよ!!
そして半年後・・・「何なのこれは!」では遅すぎますね。理想は「お子様が自立して(自律して)学習されること」です。塾に行くか行かないのか?これもお子様が判断されるのが理想です。
しかし、「大人が見る」ようには「お子様は世界が見えません」よ。私たちは「中学も高校」も通過してきました。
何処でどれだけ「がんばるか、がんばらないと困るか」それを知っています。しかし、お子様は知りません。
初めての「航海」なのです。「海図」も無く、「水先案内人」も無いのでは、沈没したり漂流したりしませんか?出来れば大方針は、保護者様が示す方がよくはありませんか?もちろん、お子様を納得させる必要はあります。しぶしぶかもしれません。私たちは、もう引き返すことはできませんが、お子様は私たちの「失敗」や「成功」を糧によりよい人生を歩まれるべきではありませんか?難しいのは「親」が直接にそれを伝えようとすると「子供」は反抗するということです。多くの賢人は、自分が賢者であるにもかかわらず「実子の教育」は他の賢者に任せてきました。
これは歴史を見ても全くその通りなのです。
極身近なところで、亡くなられた人間国宝「桂米朝」は息子さんに「小米朝」の名を与えていさえます。これを甘いとみるかどうか?私が大切にしている「たくさんの落語家の生涯」を描いた漫画があります。もう絶版です。列伝ですね。それが誠に「教育的」なので宝にしています。その中に名人と言われた方が、自分の後の「大名跡」に息子を据えるくだりが出てきます。そしてもう息絶える時に「お前の地獄はこれから始まるんだ」と迫る場面があります。名人が亡くなると今まで「遠慮」してきた噺家たちが陰に日向にいじめにかかります。そして寄席に来るお客からも「ひでえ、芸だ!」とののしる声が。・・・・例え他の噺家の内弟子にしても「結局、自分が存命していては自分に遠慮をして息子をしごきはしないだろう」と見切っての「手元に置いての猫かわいがり」だったのです。
子女の教育と言うのは、親にとって誠に難しいもの・・・自分が親でもあるからでしょうか・・と思います。