大人の世界と同様に「子供の世界」にも実に残酷なことがあります。
平気で人をいたぶり、苦しめ、陰湿な喜びを分かつ。その輪から逃れようとすると今度はその子が的になる・・・。
私は2度いじめられたことがあります。
1度は中学1年の時。私がどうも内省的な少年に見えるのでしょうか?大して強くもなさそうな奴に絡まれるのです。やっと家計が落ち着き人並みの暮らしができるようになった頃です。傘や体育館シューズを隠されたり、ロッカーを荒らされるのは私にとってとても嫌なことでした。なぜかおわかりでしょう?見つけられなければ、親に買わせなければならないからです。数千円のことでプライドを売るか・・・しかし、母に新たに金を出させるわけにはいきません。屈辱的なことにも耐えてでも「ありか」を知る必要がありました。耐えかねて「担任」に申し出ました。すると「生徒指導室」で相手と互いに話し合え・・・だそうで先生はさっさと出て行かれました。そして数十分後に「話し合いはできたか?」だそうで・・・そんなもんで解決するならとっくにしとるわい!とこちらがぷちっと切れそうになりました。なんでおとなしくしていたか?今まで働きづめの母に学校から連絡がいくことを一番恐れていました。「いじめられている」こともそうですが、私が「爆発して相手をぼこぼこにした」という連絡がいくことを恐れたのです。そのころ、自分の中の「暴力性」を押さえきる自信がありませんでした。やりすぎる可能性・・・自分が怖かったのです。死のうか?って思いましたよ。そうしたらこちらが「加害者」にならないで済みますから。2度目は高校2~3年ですね。その頃は本当に「生きること」「生きる目的」に悶々とする文学青年になっていましたから「いやだな」と思いましたが実際何をされたかは大して憶えていないのです。しかしながら、中学の教訓から教師に頼ってもダメだなとは思っていましたので、クラスで自分の在学中の思いを自由に述べる機会があったとき、全員の前でこのことを話しました。
「およそ1年半、我慢してきたから自分たちが何をしてきたかわかっているだろう。今日、つけを払ってもらうから放課後、〇〇へ来い」
休み時間になるや、2人は飛んで来ました。「あれはそんなつもりで・・・・ないんや、ごめん」
「ごめんで済んだら警察いらん」・・・関西人の決め台詞ですね。 😈
放課後に2人にはパンダ 😯 になってもらいました。その頃は「自制できる」ようになっていましたから。
そして言いました。「明日、休んだらもう一度やる」 👿 ・・・彼らはパンダ顔で登校しました。クラスでは大うけしていました。
こんなひどいことを書くと「進学塾の塾長ともあろう者が暴力をふるうなんて!また書くなんて!」と言われるでしょう。言われると思ってあえて書いています。新学期失ういのちを減らしたいのです。そんな反抗ができた(もともと私は猛獣ですので・・おとなしいと見誤る方がおかしい)のは幸いな方で、できなくて命を絶つお子様方の多いこと。公にならないだけです。みなさん世間体を気にされますから。JR瀬田駅に年に何人飛び込みますか?私は「いじめられて死ぬ」のも反対なんです。この前、登校途中の墓場で縊死した女子高校生は「私に何かあったらあなたたちのせいだから」というラインを残しました。
死んでしまえば、償わせることができなくなる。償えないとは一生十字架を背負え!ということで これほどの呪いはないと思うのです。いじめた者たちが、よほどおかしい価値観、世界観でない限り 「何か」あればこれに結びつけて考えるという責め苦を負います。地獄ですね。
私のように自分で解決(あまり勧められないのです)できない場合は、暴力・窃盗は警察に通報しましょう。被害届を出しましょう。この問題は「どっちも悪い」ではありません。「いじめる方」が悪いのです。