「読書量が多い=読解力が高い」とは思いません。往々に独善的な読み方をしている場合があります。小説はそれでも何とかつじつまが合っておりそれなりに読後感が一致します。(説明文や論説文は一致しません)
さて「やっぱり、読書量かなあ」と申しますのは、勉強の成果を考えたときなんです。
勉強の成果はできるだけコストパフォーマンスが高いほうがいいのは当然です。
要はかけた時間に比して「成果が上がる」ということ。
では成果はどんな式で求められるか?私の30余年の経験での仮説です。
成果=(考え方の方向)×勉強の質×勉強の時間の2乗×(本人の資質)
(考え方の方向)・・・勉強をどうとらえているのか、ポジティブネガティブ・自己中心など心のベクトルの方向
(本人の資質)・・・公教育では言わないところですね。生まれ持った力(地頭)もあります。これに差があることは否めません。しかし、人間には可塑的な部分もあります。幼少期から今までの「お外遊び」や「読書による想像、推理力などの開発」によってもかなりの差がある私は思います。
ゲームが「創造性に欠く」ことは言うまでもありません。木の枝をヒーローに見立てて遊ぶ・・・子供の目にはもはや木の枝ではないのです。背景もすべて作り出されています。ゲームなど他人が決めたルールの中で脳の一部の機能を使っているだけです。ゲームを含むスマホの害は深刻です。勉強したことがスマホでラインやゲームをすることで無に帰します。
資質は、固定化されたものとして申しているのではなく、幼少期には、保護者の与える環境は資質に大いに影響がありましょう。また、10歳を過ぎれば、自覚して環境を整えることでかなりの差が生じるものと考えます。自我が発達した段階では、「親がこうしなさい」といってももはや効果はないと言ってもいいかもしれません。
エースに来られてこれは大いに伸びしろがあるなあ・・・・というお子様は概して「小学生までの読書量が多い」と思います。
国語自体は、眉間にしわを寄せて学ぶような学問ではないでしょう。読解の技術などたくさん売られていますが私が見まするに「あまりにスキル・テクニックが多い」ようです。国語に果たしてそれほど厳密なルールが存在するか?しないのです。送り仮名・・・こんなもののルールは占領下で決められたこと。それまでは和歌の調べを整えるため何通りもありました。ましてや「現代文文法」・・・編み出したのは
開国後のイギリス人と聞きます。明確なる文法の存在しない言語があるか!という点から英語の文法分類をもとに国語を解析した・・・・
僕は行きます
僕が行きます
どう違いますかね?明確に「は」「が」の違いを説明してほしいなあと思います。
言いたかったのは、国語はそこまで「論理的」「合理的」にできている言語だろうか?だから「あまりに読解のテクニックに走ると本質を見失わないか」が疑問なんです。