黙って、授業を見ている・・・これは「授業に参加している」とは言いませんね。ましてや、宿題も「叱られない程度」「申し訳程度」で済ませる・・・なんのために塾に通うのかわかりません。
塾なんぞは、通うことで「何の特典」も付きませんし「資格」も取れません。それでは、ただ時間の浪費にしかならず、来るべき「奈落」は重々予見できます。人生は有限だなあ・・・と思うのは、人生の折り返し地点を超えてからでしょうか?もう2度と同じようにはやれないのだ、これからを変えていくしか方法はないのだ!と覚悟して「人生は有限である」ことが認められるように私は思います。子供のころは「時間をつぶす」なんてことは、ままありました。買い物につき合わされて本当にヒマ!どうやってこの時間をつぶすか・・・あれやこれやしたものです。今は、足らないのです。「つぶすような時間」があれば「するべきこと」を滑り込ませる・・パンパンです。
間違いを見ても「なんの反応もなく、赤ペンで誤答を消して、正答を書き込むだけ」・・・これではだめです。ましてや、その訂正が「またもや間違っている」のでは「眼は何も見ていない」のです。
「目は見たいものしか見ない」のです。授業に出ていれば、座っていれば成績が上がるのではなく、そこで「どれだけ発見するか」が授業の価値です。
机に向かい、椅子に座る・・・一見静なるようですが、心がけでは「躍動している」のです。