「目標に行かなくて・・・・・・」悲し気に言うので、「中間テストの結果」を見ますと
「いいじゃないか!」・・と内心思うのです。しかし、その生徒にとっては「目標に届かなかった」ことが「たまらなく悔しい」「残念で無念」なことのようです。 😯
500点に近い目標を掲げて「中間テスト」に臨み、そして十分恥ずかしくない点数を獲得したのですからもっと明るい顔をしてもいいのでしょうけれど、当の本人の意識は「私」なんぞの卑げた考えをこえているのです。480点越えも各学年かなりの人数がおり、100点もかなり散見されるようになりました。
全体の成績が向上しているのは確かです。生徒たちの意識改革も上記のように進んできました。しかし、まだ十分でないのです。 伸び悩んでいる生徒がいるからです。「あの人は賢いからなあ」・・・こういう言葉を吐かせないように一番気を使います。それは「土崩」の前兆だからです。その子の「今までの努力の蓄積」を打ち捨てる・・前兆だからです。語弊がありますが申しますと「才質には差があります」・・・これは皆様お分かりのことです。しかし、誰もが最大限度持てる才能を発揮しているのではありません。そこに「つけめがある」のです。「おまえ、かしこいなあ 😆 」などと褒められて人生を誤る人が如何に多いか。「褒める教育」と言いますが「才質」を褒めてはいけないのです。「努力」を褒めなければならないのです。そうでないと才質に頼り、「俺は本気出してやったらできる人間や、今はやらへんのや」などと怠惰な気持ちを誘発します。
いくら才質があろうと「時の逃せば、終わり」です。極論は「オオカミ少女」の例でしょう。・・ウソという話もありますが、狼の群れで育った少女は人間世界に連れ戻されても、知能も発達せず、ほとんど話すことも出来ず、かつ短命であったと聞いています。人間は「育つとき」「育てる時」があります。肝心な小学生・中学生の時期を「怠惰に過ごす」と、すくなくともこの日本では「やり直す道」はありません。如何に才質豊かでも「選択できる道」は、ほとんどなくなります。
「努力ですべてが解決できる」とは思いません。しかし、「努力なくして、解決するものもない」とも思います。
努力できるのは「才能」なのです。せっせと「テスト勉強できる」のは、才能なんです。