進学塾は、教育活動の中の極めて限定された「部分」だけを担います。だから、偉そうなことは言えないことは承知しています。また、その『限定された立場』が誠に不自由であるとともに故に逆説めきますが『自由』とも思います。私は進学塾を始めた30余年前は、「学習指導」オンリーを考えてきました。徹底的に鍛えました。「鬼」と言われましたがまあそれでもそのころの生徒と未だに付き合いがあるのですから、それなりに意味するところはあったのだろうとおもいます。しかし、しばらくして「学力の高低」に関係なく、合否または最後の時期の伸びにかなりの違いがあることが分かり始めました。
そのころから、「勉強を通じての人間教育」を考え始めました。「問題が解ける」こと、「偏差値が上がること」と必ずしも「人間の底力の向上」とは一致しない・・・・ある程度は「受験のスキル」「テクニック」でカバーできることもわかります。しかし、長い目で見て「高校入学後の状態」「大学進学後の状況」「住職後の状態」など失業性やその保護者様とコンタクトを取り続けていくといくつかのことが見えてきました。
やはり、教育全般の根底には「家庭教育」があります。エースのドアを開けるところからそれぞれ「差」があります。「挨拶ができるか?」です。靴箱に靴を入れる・・・踵はそろっているか?・・・え~、そんなの見ているの?見ています。また、エースは「はだし厳禁」です。サンダルでもクロックスでも、「裸足はダメ」です。学びにくるところに「生活空間と勉強空間にけじめをつける」ことは重要だと考えます。多くのお父様お母様がそう教えられてきたのではないでしょうか?
そんなことが意味があるの?・・・有るんですね。不思議なことに。そして「教科指導」・・だけでなく「人間教育」の重要性が少しですが分かってきました。学歴重視時代は、学歴がその人の「人となり」を表してきた・・からだろうと思います。私の中学生時代でも中3生徒数の4分の以下しか大学へ進学できませんでした。大学の定員がなかったのです。そこに「大学に入学した」価値がありました。くじけず継続して勉学したという価値です。だからこの人は「仕事の面でもそういう働きをするだろう」ということです。しかし、今は「高校全入・大学全入時代」です。選ばなければどこかに必ず入れます。だから、「入ること」よりも「入る為に何をしてどう成長したか?」「入ってから何をしてきたか?学んだか?」が問題とされると思うのです。もともと「人間教育」とか「人間学」とか言われてきましたが今ほど「お子様の教育の指針にこれらが重要な役割を果たす」時は無いかと愚考いたします。
昨今は「会社のネームバリュー」よりも「担当者のパーソナリティ」で選びませんか(古来そうだったんですけど、最近顕著だと思います)